『始皇帝』 安能務 1998年8月 文藝文庫
合戦の場面の描写はないが、嬴政が蔡沢、尉繚子、韓非子、という当代一流の論客や兵法家の教えを受けながら始皇帝へと成長する姿が描かれている。戦国時代を舞台とした、まさしく『キングダム』の世界です。
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西紀前771年に、孔子が「理想の王朝」と景仰した西周王朝が、三百年ほど平穏無事に続いた末に、突然、一瞬にして崩壊した。それこそ晴天の霹靂で、まさしくある朝、目を覚ましたら、昨夜まであった宮殿が焼け落ちて国王を殺され、王朝は壊滅していたのである。
(西周崩壊以降)ともあれ、三百年に及ぶ春秋時代が過ぎて、前四世紀の初頭には、こんどは「戦国七雄」と称された七つの大国が、互いに鎬を削る「戦国時代」が到来した。
時代が春秋から戦国へと移った時点で広大な中国の天下は、すでに判然として三つの勢力圏に区分されていた。黄河の中流と下流一体の「中原」には趙国を先頭に魏国、韓国、斉国、燕国が割拠し、黄河から西の渭水流域は秦国の天下で、長江の中流下流の一帯は楚国の支配領域であった。
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蔡沢はよく己れを知っている。彼は理論家で、実務家肌ではなかった。それをでも敢えて(宰相に)就任したのは、自分の果たすべき歴史的な役割を。自覚していたからである。
蔡沢は朝廷を取り仕切り、富国強兵、国力増強に努めるだけが任務だとは考えていない。自分の果たすべき歴史的な役割を演じて、秦国の国家百年の大計に寄与しようと目論んだ。有名無実の東周王朝を廃し「天下」の所在と「統一権力」を象徴する「九鼎」を洛陽から咸陽に移すことであった。
現実に「周の天下」は存在しない。だが、それを表徴する「九鼎」は洛陽にある。ならば、やがて出現するであろう「秦の天下」は異端で「周の天下」こそ正当になる、それを避ける唯一絶対の途は、今のうちに東周王朝を廃絶して、九鼎を咸陽に移すことである。
・九鼎(きゅうてい) 古代中国における王権の象徴。 鼎は鍋釜に相当する古代中国の三本足の金属器具で祭器としても利用された。
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6歳になった嬴政に、ある日、蔡沢は威儀を正して言い渡した。「小殿下は、やがて国王になることを約束されております。それで今年から立派な国王になるための勉強を教えることにしました。国王は、国の中で一番偉い人です。誰よりも一生懸命に勉強しなければならないのは、当たり前のことです」。
「うん、勉強することは面白いから頑張るけど、オレは誰とも、国王になるとは約束しなかったぞ」「小殿下が約束せずとも、そう決まっております。約束したことを守らなければならないように、決まった事も守らねばならない。それで、決まったことを約束事ということがあります」。
教師たちが一堂に会する総合教室では、変わる事と変わらない事、似ている事と同じ事、似た物の違いと違うものの似たところ、違う事物と全く別な事物、常に正しい事と時に正しい事の区別に留意させて、恒常と変化、同一性と類似性と相違性を認識する基礎を築き、正と偽、偽と悪、有用と無用の価値判断に資する力を養う。
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(韓非は言う)政治の世界で、常に名君や賢臣の出現を期待することはできない。したがって「支配体制」を確立せねばならず、支配体制とはそのためにこそ存在し、存在価値がある。つまり「支配体制」は、君主や朝臣は何もせずとも、支配体制さえ確立されていたら、政治は自ら然る。
秦王政「うむ、そうか、わかったぞ!」耳を澄まして聞いていた秦王政が不意に言った。「なるほど支配体制に倚恃すれば(頼れば)、為す無くして為さざる無し。なには為さずとも、なにもかも為したことになるわけか。素晴らしい講義だ、よくわかったぞ」。
韓非「支配体制に倚恃せずして、名君や賢臣の出現を待つのは、例えば車を馭するのに、かの伝説的な名馭者王良を待つようなものです。王良は車を馭して日に千里を往く。しかし五十里ごとに良馬固車を備えて、リレーすれば、普通の馭者でも千里を駆け抜くことはできます」。
・倚恃(いじ) 頼ること
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彼(韓非)は、政治的な天才は生まれないが、軍事的な天才は突如として現れると言った。さらに軍事力のバランスは、天才の出現によって簡単に崩れるし、一朝にして逆転することすら有り得ると言明したが、この時、秦国はまさにその危機に曝されていた。
不敗を誇っていた秦軍が、韓非子の死んだ年と、彼が秦国に来る前の年に、二度も続けて趙国で手痛い敗北を喫した。その趙軍を指揮したのは二度とも、まだ若い李牧と呼ばれた将軍であった。
その李牧が韓非子の言う、あの楽毅の再来とも思える、天才的武将ではないかと秦王政の心胆を寒からしめた。李牧は、趙悼襄王(とうじょうおう)元年(前244)に宿将廉破が悼襄王と衝突して魏国に逃げた後の趙国軍を、一人で背負い立っている。
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秦王政はかつて尉繚から、趙国の宿将廉破が魏国に亡命した経緯を聞かされている。それは廉破が新しく王位に即いた悼襄王と仲違いしたからだ、ということになっているが、その元凶は大夫の郭開(かくかい)であった。つまり郭開が悼襄王を焚き付けたからである。
その郭開が、その後宰相に昇進した。忠誠心や愛国心はひと欠片もなく、もっぱら黄金を愛しているという。秦王政はそれを思い出して、その郭開を買収せよと命じた。目的はただひとつ、李牧を亡き者にすることだ。
李牧は謀反を企てていると吹き込まれていた幽繆王(悼襄王の子)はそれを信じ込む。将軍趙忽に兵符を渡して、李牧を更迭した。李牧は王の真意を確認しようと城に入る。待ち受けていた郭開は幽繆王に進言して、李牧を逮捕すると、即刻叛乱罪で処刑した。
かくて戦国の末尾に現れた巨大な「将星」は、光り輝く間もなく、尾も曳かずに暗闇に消えた。軍事的な天才は、政治的な天才には、やはりかなわなかった。
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秦王政は天下統一の日程を繰り上げ、楚国への出兵を決意する。「楚国を滅ぼすのにどれ位の兵力があれば足りるか」と秦王政は王剪に聞く。「まず60万は必要です」と王剪は答えた。多すぎる、と秦王政は諸将に意見を求めた。「20万あれば十分でございます」と若い李信が答えた。
秦王政は、李信に兵符を授けた。王剪が憤然とする。「王賁が簡単に十余城を陥すこと出来たのは、楚国がそれを単なる略奪とみて、その鋭鋒を避けたからです。本気で国を滅ぼしにかかったと知れば、楚国が死力を尽くして戦うは必定。甘く見てはいけません」と独り言のように言った。
「別に甘く見たわけではない、老将軍たちの目がまだ黒い間に、若い将軍を育てる必要もある。気にするな。用心のために李信には蒙恬(蒙驁の孫)を輔佐役につける」と秦王政は丁寧に弁明する。王剪を心から「股肱」と信じているからだ。
間もなく李信と蒙恬は兵20万を率いて、楚国の遠途につく。それを見送って王剪は引退を願い出て頻陽に引き籠った。(李信敗北の)報せを受け秦王政は驚き後悔した。すかさず王剪の隠退した頻陽に車を走らせて、王剪に事の次第を告げ、素直に謝り再出馬を懇請した。
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王賁はこの時、魏国に遠征中である。そして王剪の60万の大軍が楚国に入ると間もなく、魏郡の大梁を陥して、魏王仮を捕まえ、魏国を滅ぼした。かくて魏国は145年にして亡びる。
楚国に進撃した王剪は、秦王政23年、蒙恬と李信の軍を麾下(きか)に収めて、楚軍を破り、さらに翌年、楚国の新しい都、寿春を陥れて楚王負芻を捕え、その領土を秦国の版図の編入して楚国を滅ぼした。かくて楚国もまた立国519年にして亡びた。
秦王政25年。大将王賁が再び兵を率いて遼東に進撃し、そこへ逃れていた燕王喜を捕まえて燕国に止めを刺した。燕国は立国111年で亡びた。王賁は遼東から西へ転じて旧趙領の代に至り、そこに逃れて代王を称していた趙嘉を切り捨てたことで、趙国も立国150年にしてその幕を閉じた。
王賁はさらに大車輪の活躍を見せる。軍を東に進めて斉国に至り、電光石火、斉郡の臨淄を陥す。斉王建は降伏し(略)斉国は、立国139年で亡びた。かくて秦王政26年、西紀前221年、戦国の雄邦は相前後して、悉く秦国に併合された。秦王政はついに天下を統一したのである。