『BORN TO RUN』走るために生まれた クリストファー・マクドゥーガル 近藤隆文・訳 2010年2月 NHK出版
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どのカバーヨ・ブランコ(白馬)伝説も基本的な部分は同じだった。何年か前にメキシコにやってきて、荒野の奥、バランカス・デル・コブレ -銅峡谷- へ入っていき、石器時代のスーパーアスリートである神話的な民族、タラウマラ族と暮らしているという点だ。
長距離走にかけてなら、タラウマラ族の右に出る者はない。(略)ある探検家は、彼が追いかけると、鹿は逃げ続けるうちに、ひづめがはがれ落ち、疲労困憊のうちに死んだという。ある冒険家によると、銅峡谷のある山をラバに乗って越えるのに10時間かかったが、タラウマラ族のランナーは90分で走破した。
カバーヨ・ブランコはどうにかしてバランカス・デル・コブレの奥地に行きついた。そして、タラウマラ族に気の合う友人として迎えられたのだという。彼がタラウマラ族のふたつの技術 -姿を消すことと並はずれた持久力- を会得したのは間違いない。銅峡谷全域で目撃されているのに、彼がどこに住み、次にいつ現れるかを知る者はいないと思われた。
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タラウマラ族は一晩中パーティをしたあと、翌朝にはむくむくと起き出してレースを始める。それは2マイルでも2時間でもなく、まる二日にわたって続けられる。メキシコの歴史家フランシスコ・アルマダによればタラウマラ族のチャンピオンは700キロを走ったことがあるという。
16世紀にエルナン・コルテス率いる武装した侵略者たちが故国に押し寄せて以来、20世紀の革命家パンチョ・ビアの荒馬乗りたちや、メキシコの麻薬王たちのその後の侵略に対しても、タラウマラ族はさらに遠くへ、さらに速く走って、バランカス・デル・コブレ(銅峡谷)の奥に引きこもった。
よそ者に対する不信が400年も続いた。タラウマラ語では、人間には2種類しかない。ララムリ、すなわちトラブルを逃れて走るものと、チャボチ、すなわちトラブルを起こすものだ。辛辣な世界観だが、一週間に六つの死体が彼らの峡谷に転がっていることを思えば、間違っているとは言いにくい。
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バランカス・デル・コブレへのある遠征中に、リック・フィッシャー(写真家)と婚約者のキティ・ウィリアムズは、パトロシニオと親しくなった。パトロシニオはタラウマラ族の若者で、タラウマラ族の二弦の楽器、チャバレケを弾きこなし、チワワ観光局の<銅峡谷>の顔として採用されていた。
リックとキティはパトロシニオにタラウマラ族古来のボール蹴りレース、ララジバリを見せてもらえないかとたずねた。”そうだな”と答えてから、彼はリックとキティにこう申し出た。村じゅうの人に食べ物でお礼をしてくれるなら、走れる人間を引っ張ってくるよ。
(ララジバリは)陳腐な市民マラソンではなかった。タラウマラ族の男たちが、腰巻にサンダルという恰好になり、レース前のマッサージを呪医から受けて、村長の号令とともに走りだした。100キロにわたる非情な土の山岳路を、明け方から日暮れまで、群れをなして突進した。
リックの頭の中で、美しい結婚が形をなしつつあった。パトロシニアがランナーを集め、将来の義理の父エド(ウルトラランナー)がレース運営の秘訣を授けてくれる。あとは慈善団体にトウモロコシの寄付を募って、タラウマラ族をその気にさせる、なんならシューズメーカーにサンダルより頑丈なものを提供してもらって・・。
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「レッドヴィル(コロラド州ロッキー山脈)は鉱山労働者とごろつきどものふるさとだ」と語るのはケン・クローバー、職にあぶれた荒馬乗りで、ハーレーにまたがる気難しい鉱山労働者だった1982年にレッドヴィル・トレイル100を創設した男だ。
1982年、クライマックス・モリブデン社の鉱山がいきなり閉鎖され、レッドヴィルのほぼ全住民の給与が道ずれとなった。(略)レッドヴィルが生き延びるには、とてつもないパワーがあるイベントが必要だ。あくびの出る、代わり映えのしない42.195キロの競争とは一線を画するものでなければならない。
レッドヴィル・トレイル100とは、フルマラソンほぼ4回ぶん(約160km)、その半分は闇夜のなかで、途中に800メートルの登山が2回ある。レッドヴィルのスタートラインは飛行機の客室が加圧され始める高度より2倍も高く(約3000m)しかもそこから上にしか行かない。
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アン・トレイソンは、勉強で頭が疲れたとき、あるいは卒業後にサンフランシスコできつい研究職に就いたあと、ゴールデンゲートをひと走りしてストレスを解消した。まもなく彼女は毎朝、研究所までの9マイル(約14.5キロ)をジョギングし仕事のストレスを前もって和らげるようになる。
そして一日の仕事が終わって脚の疲れがとれていることに気づくと、帰り道も走り始めた。すると、のんびりすごしたい土曜日に、もっと長い距離を難なく走れるようになった。例えば、一度に20マイルを、いや、25マイルを、いや、30マイルを。
十分にリラックスすれば、身体はゆりかごのようなリズムに慣れ、動いていることを忘れかける。そうやって壁を突きぬけ、穏やかな、半分浮揚するような流れに乗りだしたら、「身体と波長を合わせ、いつ加速でき、いつペースをゆるめるべきかを知らなくてはいけない」とアンは説明した。
自分の呼吸の音に耳をすますのだ。背中にどれだけの汗の球が浮かんでいるかを知り、冷たい水や塩分のあるスナックをしっかり摂って、正直に何度も、いまどんな気分かと問いかける。自分の身体に対して感覚を研ぎ澄ますこと以上に官能的なことなんてある?
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(レッドヴィル・トレイル100の)号砲が轟いたそのときから、チーム・タラウマラはみんなの度肝を抜いた。過去2大会のように後ろでぐずぐずするのではなく、一団となって飛び出し、六番通りの歩道に上がって密集するランナーたちをよけ、首位グループの主導権を握ったのだ。
40マイル(約64キロ)地点、昨年ヴィクトリアーノ(タラウマラ族)がこの地点までに要した時間は7時間12分。アン・トレイソンは6時間を切っていた。「過去に女性がこの地点を首位で通過した例はない」と、語ったのはスコット・ティンリー、ABCの『ワイド・ワールド・オブ・スポーツ』で解説者を務める人物だった。
1分と遅れずにマルティマノとファンが彼女を追って丘を駆け下りてきた。ロックポート社(シューズメーカー)のトニー・ポストはこのドラマに飲み込まれ、タラウマラ族が負けていることも、金を払って履いてもらったシューズが脱ぎ捨てられていたことも、気にならなかった。
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ファンが17時間30分でゴールを通過し、コースレコードを25分速いタイムで更新した(テープを胸で切るのではなく、恥ずかしそうにくぐったのも彼が最初だ)。アンは30分遅れの18時間6分だった。マルティマノが3位、マヌエル・ルナと残りのタラマウラ族が4位、5位、7位、10位、11位でゴールした。
トニー・ポストら、ロックポート社の重役たちが祝福に駆け付けると、リック・フィッシャーは言い放った。「おれのタラウマラ族の写真を使おうって魂胆なら、金を用意したほうがいいぞ」。トニーはあ然とした。
タラウマラ族はチャボチたちの怒鳴り合いをじっと眺めていた。怒りと敵意に直面し世界で最も偉大な隠れたアスリートたちは、いつも通りの反応を示した。峡谷地帯へと家路をたどり、秘密を道づれに、夢のごとく消えていった。1994年の勝利を最後にタラウマラ族は二度とレッドヴィルには戻らない。
ひとりの男が彼らの後を追った。その男も二度とレッド・ヴィルで目撃されることはなかった。それはタラウマラ族の風変りな新しい友人、シャギー、やがてカバーヨ・ブランコと呼ばれる、ハイ・シエラズの孤独な放浪者だった。
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マイカ・トゥルー(カバーヨ・ブランコ)はタラウマラ族に親近感を、同胞のアメリカ人たちの振る舞いに嫌悪感をいだき、償いをしなくてはならないと感じた。94年のレッドヴィルでマルティマノのペーサーを務めた後、彼はボールダーのラジオ局にかけあい、古いコートの寄付を募った。
ある程度集まるとコートを束ね、銅峡谷を目指して出発した。当人もマルティマノも驚いたことに、標高3000メートルの山頂にあるマルティマノの村にたどり着く。タラウマラ族は例によって無言で迎え入れてくれた。毎朝カバーヨが起きると、自家製トルティーヤ数枚、作りたてのピノーレが野営地のそばに置かれた。
レッドヴィルに選手として出走せず、ペーサーを務めたのは40歳の声を聞いてから脚に裏切られるようになったためだ。「ケガに悩まされていた。とくに足首の腱」とマイカは言った。長年の間にあらゆる療法を試したが、どれも効果はなかった。
それで峡谷に着いたとき、もう理屈は忘れて、タラウマラ族は万事心得ていると信じることにした。彼らの秘密を解き明かすのに時間をかけるつもりはなかった。川泳ぎの要領で取り組めばいい。とにかく飛び込み、あとは上手くいくように祈るのみだ。
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「なあ」とカバーヨは切り出した。「あのレッドヴィルのレース以降、いろんなことがあった」。かつてウルトラランニングは、懐中電灯とともに森をひた走るひと握りの変人たちのスポーツにすぎなかったが、過去数年のあいだに”新鋭たち”(ヤング・ガンズ)の出現により大きく様変わりしていた。
タラウマラ族のレースをお膳立てしたらどうだろう。往年の名ギタリスト対決のようなものだ。一週間かけて、ランナーたちがスパーリングや秘術の交換をし、たがいのスタイルとテクニックを学ぶ。最終日は全ランナーが参加するチャンピオンたちの50マイル走だ。
カバーヨはすでに計画に着手していた。クリールにいたのもひとえにそのためだ。クリールの菓子屋の奥にダイヤルアップ接続できるPCがあると耳にしたからだ。彼はeメールアドレスを手に入れ、外の世界にメッセージを発信し始めた。そこに首を突っ込んだのが私だったわけだ。
「で、誰に声をかけているんだい?」私は聞いていた。「いまのところひとりしかいない」とカバーヨ。「私が望むのはふさわしい精神をもったランナー、真のチャンピオンだけだ。だからスコット・ジュレクに打診している」。