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韓非子(下)

『韓非子』(下) 安能務 2000年6月 文藝文庫
 
 
 
 

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晋の文公がいよいよ楚国と戦うことになった。「城濮(じょうぼく)の戦い」の時のことである。そこで舅犯(きゅうはん)を召し出し問うた。「間もなく楚軍と大決戦をせねばならない。彼らは大勢で吾らは小勢である。どう戦うべきか?」
 

「平時の儀礼的な交わりでは、信義を重んじなければなりません。しかし、戦陣では詐偽を厭わず、と言います。奇兵(敵を欺く戦法)を用いる他はありません」と舅犯は答えた。一見は無意味なことを舅犯が口にしたことにはわけがある。文公は亡命中に楚国の成王に礼遇された恩義があった。
 

文公は舅犯を退がらせ、雍季(ようき)を召し出して同じことを聞くと、雍季をは異を唱えた。「狩りをするのに林を焼けば、なるほど、一度にたくさんの獣を獲ることができますが、それでは獣はいなくなります。民を治めるのも、兵を持を用いるのも同じです。詐術を使えば一時の得を取れますが、二度と同じことはできません」。
 

そして城濮の戦いでは、文公は舅犯の計謀を用いた。果たして大勝利を収める。しかし、都城に凱旋して、論功行賞が始まると最高殊勲者は、なんと舅犯ではなく雍季であった。「舅犯は一時の権宣を説き、雍季は万世の利を教えた。それで雍季を前、舅犯を後にしたのじゃ」と文公は言った。
 
 
 

「それは違うぞ」と或る人(韓非子)が言った。万世の利は今日の勝利に掛かっている。勝利を得るために、奇兵を用いて、敵を欺くことこそ万世の利である。舅犯が「詐偽」を厭わずと言ったのは、人民に対してではなく、敵国に対してである。二度と同じ手が使えないからとて、困ることなどあるまい。
 

善いことを言ったという「善言の功」によって文公は雍季を第一功労者として賞した。楚国との戦いで勝利を得たのは舅犯の計謀である。善言の功を賞すべきなら、舅犯も平時は信義を守るべきと説いたではないか。つまり舅犯は善言と計謀という、二重の功労があったはずである。
 

いや現実には、善言と戦勝の間には何らの関係もなく、雍季は城濮の勝利には微塵の貢献もしていない。戦場での戦功があったわけでもない。城濮の戦役の最高殊勲者は、紛れもなく奇兵の計謀によって勝利を導いた舅犯であった。
 
 
 
 

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魏の李克が太守として中山を治めていた時に、苦陘県(河北)の県令が会計報告をしたが、妙に歳入が多かった。悟るところのあった李克は、即座に県令に馘(カク、免職)を言い渡す。県令は釈然としなかった。李克が徐に諭す。
 

「弁舌が爽やかで、聴く人の耳を楽しませるが、その実は意味のない言説を称して窕言(ようげん)という。ふやけて、だぶついた始末の悪い意味のことだ。山林や沢谷から上がる収入がないのに、歳入の多いのを称して窕貨という。余計な取り立てをして得た泡銭のことだ。
君子は窕言を聞かず、窕貨を受けない。そちは過酷に過ぎる税の取り立てをしたから罷免した。税を取り過ぎたら民を傷つける。収入が多ければよい、ということではない」。
 

或る人(韓非子)が言った。「格好いいことを言ったが、語るに落ちたぞ」。弁舌さわやかなのは語り手である。悦ぶのは聞き手だ。語り手は聞き手ではない。語り手の喋った言葉に意味があるか、ないかが問題になるのは、聞き手ではなく、聞かされた言葉の内容である。
 
 
 

農作業では、陰陽の調和に合わせて植え、四季の移り変わりに適って、早すぎたり遅すぎたりの過ちを犯さず、寒暖の過ちを避ければ収穫は増える。小利を追って本業を妨げず、私欲をもって周囲との和合を損ねずに、男は農耕に励み、女は機織りに励めば、収入は自ずから増えよう。
 

畜産の方法を究め、土地の性質に適った作物を植付ければ、六畜五穀は繁植して収入は増える。計量を正しく地形を審らかに、舟車(しゅうしゃ)機械の利を用いれば、力少なくして功は大きく、いやでも収入は増えよう。
 

李克が言ったような山林、沢谷の利はなくとも、歳入が増える途はいろいろとあるのだ。歳入の多いのを称して窕貨というのは、無術の言である。と韓非子は言った。
 
 
 
 

3
太古の昔、人民が少なくて、禽獣が多かった。人々は禽獣虫蛇に脅かされて夜もおちおち眠れない。そこへ聖人が現れた。木の上に巣を搆(架)て住むことを教える。人々は群獣の害を避けることができた。人々は悦んで、彼を天下の王に推戴(すいたい)する。王となった聖人は有巣氏と呼ばた。地上に最古の王が誕生したのである。
 

そのころ人々は、草木の実や貝などを生で食べていた。集落に悪臭が漂い、人々は胃腸を壊す。そこへ第二の聖人が現れた。燧(ひうち)石で火を取り、火食を教えた。人々は悦んで、やはり彼を天下の王に推し戴く。王位についた聖人は燧人(すいじん)氏と呼ばれた。
 

時が移って中古の時代が始まる。洪水が絶えず人々は水害で苦しんだ。そこへ鯀(こん)と禹(う)が現れて治水に取り組む。瀆(とう、大河)の堤を切り排水の溝を掘ったりしてついに水を治めた。鯀は禹の父である。禹は王位の禅譲を受けて、夏の王朝を開いた。
 
 
 

尭(ぎょう)が天下の王であった時代は、粗末な宮殿に住んでいて、食事も衣服も同様に粗末である。禹(う)王の場合は、自ら鋤(すき)や鍬(くわ)を担いで民の先に立ち、治水で忙しく歩き回ったから股や脛の毛がすり擦り切れて、生える間もない程に、苦労を重ねたものである。
 

それを考え、これを見ると、彼らが後代の史家から絶賛を受けた「禅譲」は、その実、いまの門番が職を捨てることよりも、未練を残さず、せいせいしたものである。天下を他人に譲ったからとて、銅鑼(どら)や太鼓を叩いて賞賛するほどのこと(美徳)ではなかった。
 

高位高官と言わず、いまの県令ですらも、死ねば膨大な財産を残して、子孫が末長く馬車を乗り回せるほどに、儲かる商売である。いまの県令が地位を死守して、古の天子が簡単に位を譲るのは、実入りや生活ぶりが違うからだ。「薄重之実」、実入りの重い軽いによる生活の苦楽の違いである。
 
 
 
 

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権謀術数とは官僚が官場を生き抜く知恵と、そこから利益を得る技術であった。現実に使われた技法は千差万別であるが、敢えてそれを七つに類型化して一つの要目で締め括る。それを称して「一要七術」と謂う。一要とは「揣摩渲染(しませんせん)」、例の「合従」を唱えた蘇秦の開発した技法だ。
 

その技法を開発し、それを身に付けたことによって蘇秦は権謀術数の世界における、史上最高の殊勲者、あるいは受益者となった。彼は、信じ難いことだが、一時的にではあったにせよ、魏、趙、韓、斉、燕、楚という六ケ国の相印(宰相の宣印)を腰に帯びた。
 

あるとき蘇秦は「太公陰符」を得て、それを伏読した。太公陰符の「謀」を選び、それを練り上げて、揣摩、すなわち類推の準拠となし、それを以って游説を始めた。さらに「揣摩」の語義の推移に伴って「揣摩渲染」の技法を身に付けた。渲染とは自分の本意と立場を曖昧模糊にすることだ。
 
 
 

具体的には、先ず、聞き手が話し手よりも、より良く知っていることを、かまわずに堂々とまくし立てる。つまり貴国の地理的条件、山岳河川から国境線、人口、兵力、社会はこれこれしかじかである、としたり顔で説き起こす。
 

続けて、国君は聡明で兵は強いと持ち上げ、本来なら覇王の国たり得ると煽て上げる。俄かに一転して、それが秦国ごときに脅えているとは、なんたるザマだと一喝して、しかし正直なところ秦国はおそろしい国だ、まごまごしていると滅ぼされるぞと、脅す。
 

さらに話を再び逆転させて、なに、秦国は恐るるに足りない。手足など出せないように抑え込む手がある、と励ましておき、一気に、それは中原諸国が軍事同盟を結ぶことだ。「合従」を誓うことである。と解決の道を示す。
 

続くのは殺し文句だ。「合従すれば大王は、中原に君臨する覇王となり、逆に連衡が成立したら秦王は帝位に即いて、大王は臣従を迫られる。覇王の業を捨てて、他国に臣事することは、大王のような賢明な君主の取る道ではありますまい」で説得を打ち切り、さっさと座を外す。