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韓非子(上)

『韓非子』(上) 安能務 2000年6月 文藝文庫
 
 
韓非より二百年程前に生まれた孔子は、徳により国を治めることを説き「人徳政治」は春秋時代の中国に広まる。戦国後期、韓非子は「政治」とは儀礼や倫理道徳とは次元を異にし、支配と被支配のメカニズムで動く権力の場であると説いた。韓非子の「支配体制論」は始皇帝に受けつがれ、その後の中華帝国へと継承されることになる。
 
 
 

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男は三国演義を、女子は西廂記(せいそうき)を読むべからず、という俚諺(りげん 諺)がある。俚諺だから典拠は分からず、だれが最初に言い出したのかも明らかでないが、しかし、それが逆説であることは明らかだ。
 

三国志や三国演義は「権謀術数(けんぼうじゅっすう)」の教本のようなものである。それを読めば狡猾で不誠実な男になるから読んではならない。西廂記は不倫の書である。読めば女は淫欲を起こす。よって読むべきではない、と言うのである。
 

読三国者、庸。読孫呉者、能。読韓非者、賢。
三流(庸)の政治家は、三国志や三国演義を読み、二流(能)の政治家は孫呉(孫子、呉子の兵書)を読んで、一流(賢)の政治家は韓非すなわち「韓非子」を読む、と言う意味の俚諺である。
 
 
 
 

2
その昔、晋国の献公が、虞(ぐ)国の道を借りて虢(かく)国を討とうと欲した。それに対し、大臣の荀息(じゅんそく)が進言する。「ならば、殿がお持ちの『垂棘の璧』(玉)と『屈産の乗』(馬)で虜公を賂(まいな)えばよろしいかと存じます。それで道を借りたいと言えば、きっと貸して貰えるに違いございません」。

・垂棘の璧(すいちょくのへき)
 

「いや。それは困る。垂棘の壁は先君のお宝だ。屈産の乗は誰が何と言っても、絶対に手放したくない寡人愛用の名馬である。もし、それらを受け取りながら、道を貸さないなどどと言われたら、どうするか」。献公は気が進まなかった。荀息が、意味ありげな微笑みを浮かべる。
 

「相手が道を貸さなければ、われらの贈物を受けず、受け取れば、必ず道を貸すはずです。ご懸念には及びません。しかもわれわれにとって宝璧を贈るのは、単に宮廷内の宝物庫から、宮廷の外の倉庫に移すだけのこと、名馬も内厩から外厩へ移すだけのことです」。
 
 
 

献公は荀息を虞国に遣わし、虞公は大夫の諫めを聞き入れずに宝璧と名馬を受け取る。そして道を貸した。荀息はさっそく軍を率いて虞の領内を通り、虢国を討ち滅ぼした。そして三年が経ち、晋国は不意に軍を興し今度は虞国を撃ち滅ぼした。荀息は馬を牽き、璧を捧げて献公に復命した。
 

「なるほど、卿が言った通りに、璧と馬が帰ってきた。しかし、璧は元のままだが、馬の歯はかなり伸びたぞ」と献公は冗談を言いながら悦んだ。虞公は小利を愛し、その害を慮らなかった。故に、小利を顧みるは即ち大利を残(やぶ)ることなり、というわけだ。
 

 
 
 

3
呉起がまだ世に出なかった頃のこと、ある日、外出して旧友に出会った。呉起が誘う。「久しぶりだ。家で一緒に食事をしよう」「ありがたい。用を済ませてから、帰りに寄る」「必ず来るんだぞ。遅くなっても食べずに待っている」と家に帰った呉起は夕食の支度をさせて友を待った。
 

日が暮れた。しかし旧友は現れない。初更(午後八時)の鐘が鳴った。友は来ない。二更(十時)の鐘が続いて三更の太鼓が響く。四更(午前二時)の太鼓が続いて五更(午前四時)の鐘が鳴る。それでも友は現れなかった。間もなく夜があける。呉起は友を探しに使いを出した。
 

やっと見つけだした友人を、使いの者が家に連れてくる。その友人を迎えて、呉起は一緒に遅い夕食を摂る。友人が言った。「待たなければよかったのに、申し訳ない」「いや、いいんだ。勝手に、どんな約束でも守ることにしている」呉起は言った。顔に怒色はない。
 
 
 
 

4
曾子は偉い学者だが、貧乏していた。食事は貧しく、滅多にしか肉がでない。子供が時に、肉が食べたいとねだる。一日、曾子の妻が市場に出かけるのに、一緒にいくと子供が纏わりつき、果てには泣き出した。「帰ったきたら、豚を殺して食べさせるから、いい子でお留守番をしなさい」。
 

帰ってくると曾子が豚を殺す支度をしていた。「あれは戯れに言ったことです」と妻が言う。

「それが戯れの言葉と知らない子供に滅多なことを言うものではない。子供はそれを約束と取ったはずだ。子供は父母の言を聴きながら育つ。子供を騙す母親を子供は信じなくなる。それでは教育はできない」と孫子は豚を殺し、妻はそれを料理した。子供は大喜びである。
 

小信成りて大信立つ。ゆえに明主(君主)は信を積む。賞罰が信(確実)ならば即ち禁令行われず。明主は信を表すのに、曾子が豚を殺した風でなければならない。曾子が子供との約束を守って、大散財をしたことは決して無駄ではない。
 
 
 
 

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斉の桓公が、管仲を取り立てようとして、軍臣に命令した。「寡人は管仲を仲父に立てる積りでいる。義とするものは門を入って左へ、善からずとするものは右に並べ」。しかし東郭牙が独り右にも左にも並ばず中央に立つ。
 

「なぜ中央に立っているのか」と桓公が聞いた。「左右を決する前に、お伺いしたいことがございます」「よかろう」。
 

「管仲の智は、以って天下を謀るに足りるでしょうか」「足りる」「敢えて大事を決断する力はあるでしょうか」「ある」「その天下を謀る智力と、大事を断ずる胆力を持った管仲に、君主が治国の権柄を渡す。管仲は国君の権勢に乗って斉国を治めることになるが、それで危険はないでしょうか」。
 

「うむ!」と桓公は答えて、考える。隰朋(しゅうほう)に内政を任せて、管仲は軍事外交に専念させることにした。やはり全権を委ねることに、一抹の不安を抱いたのである。
 
 
 
 

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陽虎が魯国を逐(お)われ、斉国で疑われ、趙国に駆け込んだ。しかし趙簡主は彼を快く迎えて、いきなり相に任ずる。つまり大臣に取り立てた。左右の者が異議を唱えた。「(陽)虎は国政を窃むことに長けております。なぜ相となされるのですか」。
 

「いいではないか。陽虎は隙を窺って国を盗み取ろうとする。そのため懸命に働く。我らは目を光らせて守る。警戒を怠らなければ、盗み取られる心配はない」と趙簡主は対策を講じて、陽虎に備える。陽虎は姦をなす能わず、力を尽くした。悪党の中には有能な者が多い。陽虎がそれであった。
 

陽虎が野心家であることは、初めからわかっていた。よし!取るなら取ってみろ。絶対に取れないようにしてみせる。その緊張感はそれ自体、治国の力学的な躍動の源泉で、それゆえ趙国は期せずして強大化した。「虎取我守」は君主の儲(たくわ)えるべき心得である。
 
 
 
 

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李孫が魯の宰相だった時に、子路をその居城郈の令に取り立てた。その年の五月に魯国で長い水路の掘削工事が始まる。徴用された役夫のために、子路が自腹を切って、五父の辻に栗粥の炊き出しを行った。それを聞いた孔子は「礼に反する」と怒り、子貢を炊き出しの現場に遣わした。
 

子貢は、師の言いつけを実行する。炊き出しの大鍋をひっくり返し、炊き出し小屋を叩き潰した。今度は子路が怒って、師の孔子に談じ込む。「先生に仁義の道を教わりました。役夫たちは腹を空かせております。それで粥を炊き出しました。仁義の道を行ったのです。なぜ悪いのでしょうか」。
 

「由(子路)よ、それは仁義とは関係のない礼の問題だ。天使は天下を愛し、諸侯は境内を愛し、大夫は官職を愛して、士は家を愛する。それが礼というものだ。愛する対象を超えれば、上を侵す。民は魯君の民である。その民をそなたが擅(ほしいまま)に愛するのは、君権を侵すことだ。上を誣(ないがしろ)にすることだ」。
 

間もなく、李孫氏の使者が現れる。「先生はなにゆえに弟子をして、使役のものに粥を炊かせたか。それは『擅』にして、『誣』である」と李孫の口上を伝えた。これはまずいことになった。危険が迫ってくる・・と、孔子は駕して魯国を去った。
 
 
 
 

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秦の昭王が病を得て床に臥せった。それと知った百姓が心配する。末端の行政単位である「里」ごとで牛を買い込み、それぞれの家で王の病気が快癒したら、その牛を殺してお供えするから、王の病をお治し下さるようにと神に禱った。果たして神の霊験もあらたかに、間もなく昭王の病気は治った。
 

秦国が急速に領土を広げて農地を増やしていた時のことである。牛はどれだけいても足りず、勝手に牛を殺すことは禁じられていた。しかし、王の塞禱で殺したのだから禁令は問題ではない。滅多にありつけない牛肉を頬張りながら、人々は神に感謝した。

・塞禱(さいとう) 祈願成就の儀式
 

郎中が昭王に報告した。「古の聖帝、尭舜の徳も王には及びません」。「なんのことだ」昭王が驚く。「尭舜両帝のために人民が祈ったいう話は聞いたことがございません。領民は牛を買って禱り、快癒なさるや、それを殺して塞禱しました。それで尭舜も及ばない、と申し上げました」。
 

しかし昭王は、それには答えず、人を遣わして実情を調べさせる。塞禱を行ったそれぞれの里の里正(村長)と配下の伍郎(長老)に、罰として甲(よろい)二組を供出せよ、と命じた。その数か月後、郎中は解せずにわけを聞く。
 

「分からない者たちよのう。君臣の関係は、親子兄弟の間柄ではない。臣民が君主に用をなすのは、愛し愛されるからではなく、勢と称される仕組みの中で、自らなる役割を果たしているまでのことだ。君臣が互いに心を通わせれば、法は立たなくなる。それで寡人は勢に拠って愛の道を断ったのじゃ」。
 
 
 
 

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茲鄭子(じていし)が車を曳いて、高い橋を渡ろうとした。橋の袂の斜面が激しい。轅(ナガエ 馬車などの前に突き出ている2本の棒)に腰かけて大きな声で歌い出す。美声ではなかったが、歌詞が洒落ている。前を行く人が立ち止まり、後から来る者が駆けよって来た。
 

茲鄭子は徐々に立ち上がって、車を曳く。歌に耳を傾けていた通行人が、頼みもしないのに、手を貸して、車を橋の上に推し上げた。茲鄭子が人を呼び寄せる術を心得ていたからである。おかげで楽して車を橋に引き上げることが出来た。
 

物事の条理に従えば、労なくして事は成る。
だから、轅に腰かけて歌いながら茲鄭子は車を橋の上に引き上げた。