『論語』 金谷治 1999年(改定版)岩波書店
原文、読み下し、現代語訳、注釈が載っていて、わかりやすく読めた。<學而第一> の最初のことばに『論語』全体の調子や内容が集約されているように思う。すなわち、人生は、学び、それを行うことを楽しめ、よき友人と語りあうことを楽しめ、そして自分のペースで素直に自由に生きよと。2500年という時をこえて孔子が語る、とても力強くシンプルなメッセージ。
<はじめに>
『論語』は孔子を中心とする言行録である。それは、『大学』『中庸』『孟子』と並ぶ「四書」の筆頭として、中国はもとより、われわれの祖先の血肉となりバックボーンともなった、古典のなかの古典である。
<学而(がくじ)第一>
子の曰(のたま)わく、学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。
先生がいわれた。「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいことだね。だれか友だちが遠い所からもたずねて来る、いかにも楽しいことだね。人が分かってくれなくとも気にかけない、いかにも君子だね。」
子禽(しきん)が子貢(しこう)にだずねていった、「うちの先生はどこの国にいかれても、きっとそこの政治の相談をうけられる。それをお求めになったのでしょうか。それとも[向こうから]持ちかけられたのでしょうか。」
子貢は答えた。「うちの先生は、温(おだやか)で良(すなお)で恭(うやうや)しくて倹(つつま)しくて譲(へりくだり)であられるから、それでそういうことになるのだ。先生の求めかたといえば、そう、人の求めかたとは違うらしいね。」
子貢がいった、「貧乏であってもへつらわず、金持ちであってもいばらないというのは、いかがでしょうか。」先生は答えられた、「よろしい。だが、貧乏であっても道義を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのには及ばない。(略)」
<為政(いせい)第二>
子の曰(のたま)わく、故(ふる)きを温めて新しきを知る、以て師と為(な)るべし。
先生がいわれた、「古いことに習熟してさらに新しいこともわきまえてゆくなら、人の師となれる。」
子の曰(のたま)わく、学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。
先生がいわれた、「学んでも考えなければ、[ものごとは]はっきりしない。考えても学ばなければ、[独断におちいって]危険である。」
<里仁(りじん)第四>
先生がいわれた、「地位のないことを気にかけないで、地位を得るための[正しい]方法を気にかけることだ。自分を認めてくれる人がいないことを気にかけないで、認められるだけのことをしようとつとめることだ。」
先生がいわれた、「父母の年齢は知っていなければならない。一つにはそれで[長生き]を喜び、一つにはそれで[老い先を]気づかうのだ。」
<雍也(ようや)第六>
冉求(ぜんきゅう)が「先生の道を[学ぶことを]うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです。」といったので、先生はいわれた、「力の足りない者は[進めるだけは進んで]中途でやめることになるが、今お前は自分から見切りをつけている。」
先生がいわれた、「人が生きているのはまっすぐだからだ。それをゆがめて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ。」
先生がいわれた、「智の人は[流動的だから]水を楽しみ、仁の人は[やすらかにゆったりしてるから]山を楽しむ。智の人は動き、仁の人は静かである。智の人は楽しみ、仁の人は長生きする。」
<述而(じゅつじ)第七>
先生のくつろぎのありさまは、のびやかであり、にこやかである。
先生は、近親者を死なせた人のそばで食事をされるときには、十分にはめしあがらなかった。先生は、おとむらいで声を上げて泣かれたその日には、歌はうたわれなかった。
先生は、斉(さい)の国で数ヶ月のあいだ韶(しょう)の音楽を聞き[習われ、すっかり感動して]肉のうまさも解されなかった。「思いもよらなかった。音楽というものがこれほどすばらしいものとは。」
先生がいわれた、「粗末な飯をたべて水を飲み、うでをまげてそれを枕にする。楽しみはやはりそこにもあるものだ。道ならぬことで金持ちになり、身分が高くなるのは、わたしにとっては浮き雲のよう(実のない無縁なもの)だ。」
先生がいわれた、「わたくしは生まれつきものごとをわきまえた者ではない。昔のことを愛好して一所懸命に探究しているものだ。」
<先進(せんしん)第十一>
顔淵(がんえん)が死んだ。先生は哭泣(こくきゅう)して身をふるわされた。おともの者が「先生が慟哭された!」といったので、先生はいわれた、「慟哭していたか。こんな人のために慟哭するのでなかったら、一体だれのためにするんだ。」
子貢が、「師(子帳)と商(子夏)とではどちらが優れていますか。」とたずねた。先生は「師はゆきすぎている、商はゆきたりない。」といわれた。「それでは師がまさっているのですか。」というと先生は「ゆきすぎたのはゆきたりないのと同じようなものだ。」といわれた。
子路が「聞いたらすぐそれを行いましょうか。」とおたずねになると、先生は、「父兄といった方がおいでになる。どうしてまた聞いてすぐにそれを行えよう。」といわれた。冉有(ぜんゆう)が「聞いたらすぐそれを行いましょうか。」とおたずねすると、先生は「聞いたらすぐにそれを行なえ。」といわれた。
公西華はいった、「由(子路)さんがおたずねしたときには、先生は『父兄といった方がおいでになる。』といわれたのに、求(冉有)さんがおたずねしたときには、先生は『聞いたらすぐにそれを行なえ。』といわれました。
赤(このわたくし)は迷います。恐れいりますがおたずねいたします。」先生はいわれた、「求は消極的だから、それを励ましたのだが、由は人をしのぐから、それをおさえたのだ。」
<願淵(がんえん)第十二>
子貢が政治のことをおたずねした。先生はいわれた、「食糧を十分にし軍備を十分にして、人民には信を持たせることだ。」子貢が「どうしてもやむをえず捨てるなら、この三つの中でどれを先にしますか。」というと先生は「軍備を捨てる」といわれた。
「どうしてもやむをえず捨てるなら、あと二つの中でどれを先にしますか。」 というと、「食糧を捨てる。昔からだれにも死はある。人民は信がなければ安定してやっていけない。」といわれた。
<子路(しろ)第十三>
子貢がおたずねしていった、「どのようでしたら士人といえるでしょうか。」 先生はいわれた、「わが身のふるまいに恥を知り、四方に使いに出て君の命令をそこなわなければ、士人だといえるよ。」
「しいておたずねしますが、その次は。」「一族からは(内からも)孝行だといわれ、郷里からは(外からも)悌順だといわれるものだ。」「なおしいておたずねしますが、その次は。」「言うことは偽りなく、行うことはいさぎよい。こちこちの小人だがね、でもまあ次にできるだろう。」
「このごろの政治をしている人はどうでしょうか。」 先生はいわれた、「ああ、つまらない人たちだ、とりあげるまでもない。」
先生がいわれた、「教育もしない人民を戦争させる、それこそ人民を捨てるというものだ。」
<憲問(けんもん)第十四>
先生がいわれた、「むかしの学んだ人は自分の[修養の]ためにし、このごろの学ぶ人は人に知られたいためにする。」
先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にきかけないで、自分に才能がないことを気にかけることだ。」
子路が石門で泊まった。門番が「どちらから。」といったので「孔の家からだ。」というと、「それは、だめなのを知りながらやっている方ですな。」といった。
[先生の古なじみでろくでなしの]原壌(げんじょう)が立て膝で座って待っていた。先生は「幼いときにはへりくだらず、大きくなってもこれというほどのこともなく、年よりまで生きて死にもしない。こんなのが[人を害する]賊なのだ。」といわれると、杖でその脛(すね)をたたかれた。
<衛霊公(えいれいこう)第十五>
陳の国で食糧がなくなり、お供の人々は疲れ果てて立ち上がることもできなかった。子路が腹をたててお目みえすると、「君子でも困窮することがあるのですか。」といった。先生はいわれた、「君子ももちろん困窮する。だが小人は困窮するとでたらめになるよ。」
子貢がたずねていった、「ひとことだけで一生行なっていけることがありましょうか。」 先生はいわれた、「まあ恕(じょ 思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」
先生がいわれた、「ことば上手は徳を害する。小さいことに我慢しないと大計画を害する。」
先生がいわれた、「大勢が憎むときも必ず調べてみるし、大勢が好むときも必ず調べてみる。」
先生がいわれた、「教育による違いはあるが、[生まれつきの]類別はない。[だれでも教育によって立派になる]。」
先生がいわれた、「君子は道を得ようとつとめるが、食を得ようとはつとめない。耕していても飢えることはあるが、[道を得ようとして]学んでいれば、俸禄は自然に得られる。君子は道のことを心配するが、貧乏なことは心配しない。」
楽師の冕(べん)がお会いしに来た。階段まで来ると、先生は「階段です。」といわれ、席まで来ると、先生は「席です。」といわれ、みんなが座ってしまうと、先生が「だれそれはそこに、だれそれはそこに。」といって教えられた。
楽師の冕が退出すると、子帳がおたずねした。「あれが楽師と語るときの作法でしょうか。」先生はいわれた。「そうだ、もちろん楽師を介助するときの作法だ。」
※冕は人名。当時、楽師は盲人であった。
<李氏(きし)第十六>
孔子がいわれた、「有益な友だちが三種、有害な友だちが三種。正直な人を友だちにし、誠心の人を友だちにし、もの知りを友だちにするのは有益だ。体裁ぶったのを友だちにし、上べだけのへつらいものを友だちにし、口だけたっしゃなのを友だちにするのは、害だ。」
孔子がいわれた、「君子には三つの戒めがある。若いときは血気がまだ落ちつかないから、戒めは女色にある。壮年になると血気が今や盛んだから、戒めは争いにある。老年になると血気はもう衰えるから、戒めは欲にある。」
孔子がいわれた、「生まれついてのもの知りは一番上だ。学んで知るのはその次ぎだ。ゆきづまって学ぶ人はまたその次だ。ゆきづまっても学ぼうとしないのは、人民でも最も下等だ。」
陳亢(ちんこう)が[孔子の子である]伯魚(はくぎょ)にたずねて「あなたはもしや何か変わったことでも教えられましたか。」というと、
答えて「いいえ、いつか[父上が]ひとりで立っておられたとき、このわたしが小走りで庭を通りますと、『詩を読んだか。』といいましたので『いいえ。』と答えますと、『詩を読まなければ立派にものがいえない。』ということで、わたしはひきさがってから詩を学びました。
別の日にまたひとりで立っておられたとき、このわたしが小走りで庭を通りますと、『礼を学んだか。』といいましたので『いいえ。』と答えますと、『礼を学ばなければ安定してやっていけない。』ということで、わたしはひきさがってから礼を学びました。この二つのことを教えられました。」
陳亢は退出すると喜んでいった、「一つのことをたずねて三つのことがわかった。詩のことを教えられ、礼のことを教えられ、また君子が子どもを近づけない(とくべつ扱いしない)ということを教えられた。」