昭 和」カテゴリーアーカイブ

TOKYOオリンピック物語(野路秩嘉)

『TOKYOオリンピック物語』 野路秩嘉 2011年2月 株式会社小学館
 
 

 
 
 
 
1/8
亀倉雄策は東京大会のシンボルマークとポスター4種をデザインした。加えてオリンピックにおけるデザイン(標識、案内板など)計画の責任者を組織委員会に推薦し、採用させている。
 

白地に赤い太陽と黄金の五輪マークを組み合わせたマークは発表された時から評判となった。大衆は赤い太陽を日の丸として認識し、日本初のオリンピックにふさわしいマークだと思った。マークは大会が終わる64年10月まで、日本中のいたるところに貼り出された。
 

亀倉はこういった。「僕の功績はシンボルマークをデザインしたことではない。作ろうと提案したことだ。僕が東京オリンピックでシンボルマークを作ったら、それが好評で、メキシコでもミュンヘンでも作るようになった。大会独自のシンボルマークを作ろうと初めて提案したのが僕なんだ」。
 

亀倉は東京大会をこう振り返る。「東京オリンピック以前の日本人は(略)時間にはルーズだし、会議には遅れてくるのがあたり前だった。日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。みんな、そのことを忘れている」。
 
 
 
 

2
この頃のインフラ整備を考えるにつけ、私は当時の計画者を評価する。彼らは戦後日本が初めて、海外からの大勢の賓客や観光客を迎えるに際して、新幹線、モノレール、といった世界最新の技術を用いた交通機関を作った。新幹線についていえば、営業開始は開催のわずか10日前だ。
 

「役人は前例踏襲が命」と言われているが、当時の役人、国鉄関係者の頭脳は躍動していた。その後、日本で大阪万博、札幌オリンピック、長野オリンピック、日韓ワールドカップと国際的イベントが開催されたが、いずれも、そのために世界最新、最高の技術で世界からの人々を迎えようといった向こう見ずな計画は立てていない。
 

クーベルタン男爵によって提唱された第一回アテネオリンピック(1896年)に出場した選手の数は14か国で280名だった。それが第18回東京オリンピックでは93の国と地域、5152名の選手が出場する規模に膨れ上がる。競技種目も増えて20競技、163種目となった。
 

種目や選手が多くなるにつれて、競技の結果を記録し、着順をつけるのも時間と人手がいるようになってきた。東京オリンピックでは従来とはまったく違う最新式の速報システムが導入された。それがコンピューターのリアルタイムシステムによる競技結果の速報だった。
 
 
 
 

3
このオリンピックのシステムを担当したのが当時32歳だった日本IBMのシステムエンジニア、竹下亨である。
 

日本IBMが組織委員会に確約したのは全種目の競技結果を速報するシステムを構築すること、および記録を集大成して東京大会のマスター・レコードブック(公式記録)を作ることで、どちらも宣伝のために無償で請け負っている。
 

「私たち開発者がこだわったのは、汎用の商用機でシステムを開発することでした。汎用の機械を使っておけば、オリンピックが終わったあと、さまざまな分野にシステムを売り込むことができる。
 

リアルタイムシステムの成功はIBMにとっても大きなビジネスチャンスだったのです。実際、オリンピックの仕事をしていた連中をその後、当時の三井銀行のオンラインシステム開発に振り向けました。それもまた日本初のコンピュターによる銀行システムの開発でした」(竹下亨)。
 
 
 
 

4
選手村の給食業務は、オリンピックでは通常、ケータリング業者が契約し、営利事業として給食を担当する。だが、東京オリンピックに限ってはホテルの業界団体、社団法人日本ホテル協会が名乗りをあげ、材料費こそ受け取ったものの、調理に関しては実質的に無償で給食業務を受け負った。
 

日本ホテル協会会長犬丸徹三は次のように述べている。「選手村の運営は、主催国、および主要都市の責任においてすべて行われ、その成否はオリンピック大会成功の鍵と言われている。なかでも競技に基礎をなす一人一日6000キロカロリー、7000人以上にも及ぶ選手及び役員に対する給食業務の円滑な運営がその中心をなしている」
 

丹下健三が設計した代々木のオリンピックプールは、外観の美しさで見物客を集めていたが、選手村の方はさまざまな国の選手が滞在するという事実に人々はひきつけられた。選手村の近くに行けば「東洋の魔女」、「マラソンのアベベ」、「100メートルのボブ・ヘイズ」のような有名選手に会えるかもしれないという期待が、日本人の関心を引いたのだ。
 
 
 
 

5
当時の料理人にとって最大の課題は「エスニック料理をどうやって調理するか」にあった。その頃の日本にはそうした料理を出す店はまず見当たらなかった。エスニック料理のレシピ開発と選手村食堂の運営を担った中心人物が、帝国ホテルの新館で料理長を務めていた村上信夫だった。
 

4つの選手村食堂(富士食堂、桜食堂、女子食堂、サプライセンター)に働く料理人の数は300人。いずれもホテル業界に所属する全国のホテルや旅館で料理をする人たちで、これほど多くの料理人がひとつのところに集まって仕事をしたのは戦前、戦後を通して初めてのことだった。
 

東京オリンピックを経験し、料理人たちがもっとも変わったのは調理のシステムを覚え、その後日常の仕事を効率的にしたことだろう。冷凍食品の活用、サプライセンターの設置、そして共同作業のノウハウを覚えた料理人たちは元の職場に戻ってから、得た知識と知恵を活用した。
 

そして、東京大会が生んだ大量調理とサービスのシステムは、1970年に大阪で行われた万国博覧会でいっそう広まり、ファミリーレストランを初めとする外食産業の誕生へと結びついていく。
 
 
 
 

6
記録映画『東京オリンピック』は総予算2億7000万円をかけた作品である。スタッフの総勢265人、映画キャメラ83台、使用したレンズの数163個、撮影フィルムの長さ32万2933フィート、上映時間170分という堂々たるスケールの、総天然色、ワイドスコープ作品である。
 

興業成績も上々だった。公開後6ヶ月の観客動員は1960万人、興業収入は25億円と大ヒットを飛ばしている。観客動員数においては、邦画では2011年現在までの歴代2位である。
 

オリンピックの記録映画は、国際オリンピック委員会の取り決めで、毎回、必ず制作されることが決められている。ただし一般の観客に公開してヒットと呼ばれるくらいの域に達したのはこの市川作品と、戦前のベルリンオリンピックを記録した『民族の祭典』『美の祭典』の2本しかない。
 
 
 
 

7
記録映画の準備は進みつつあった。ニュース映画7社が「記録映画の製作には自分たちの社員を使ってほしい」と組織委員会に申し入れ、その通りに決まったのである。ニュース映画とは、映画館で本編がかかる前に、折々のニュースを取り上げた短い映画のことで、当時はどこの映画館でも週替わりで上映していた。
 

亀田佐は助監督の立場だった。「初めてお目にかかった時、僕は市川さんにドキュメンタリーと劇映画の違いについて尋ねました。そうしたら『劇映画は役者を演出する。ドキュメンタリーは場を演出する』とおっしゃった。続いて、ドラマはアクションを撮る、ドキュメンタリーはリアクションを撮る、と」。
 

谷川俊太郎は脚本家として参加した。「東京オリンピックを見た評論家は『なんとも新鮮な感覚のスポーツ映画』と感想を言いました。そりゃそうですよ。僕も含めてシナリオを書いた人間はみんなスポーツオンチなんだから。新鮮に決まってます」。
 
 
 
 

8
(デザインの)一連の仕事の中で、共同作業の成果が表れた成功例が、ピクトグラムの制作だろう。ピクトグラムとは一般に絵文字と言われるもので、たとえば「非常口」と漢字で記す代わりにドアの上に人が出ていく姿をシルエットで描いたものをいう。
 

今ではピクトグラムは、はるか昔から存在したものと思い込んでいる人も多いが、ピクトグラムが標準化されたのは東京オリンピックが世界初であり、開発したのは日本のグラフィックデザイナーたちだ。
 

ひとりの担当が最後の1枚を描き上げたとき、勝美(デザイン統括者)は全担当者を呼び集め「諸君、まことにありがとう」と丁寧に頭を下げた。その後、書類を配り「みなさんのサインを下さい」と言ったのである。そこには「私が描いた絵文字のと著作権は放棄します」と記されていた。
 

そして、とまどうグラフィックデザイナーたちに勝美ははっきりと宣言した。「あなたたちのやった仕事はすばらしい。しかし、それは社会に還元するべきものです。誰が描いたとしてもそれは、日本人の仕事なんです」。