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ムーンウォーク マイケル・ジャクソン自伝

『ムーンウォーク』 マイケル・ジャクソン自伝 河出書房新社 2009年11月
 


 
 
 

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たいてい僕は楽屋裏ではひとりでした。兄さんたちが上で食べたり話したりしている間も、僕はステージの袖で、かがみこんで、埃だらけのカーテンをつかむようにして、ショーを観ていたのです。ステップを、動きを、ツイストを、ターンを、感情を、そして照明の動きを、ひとつ残らず見つめていたのです。
 
 

それが僕の勉強、同時に気晴らしでもあったわけです。父さんも、兄さんたちも、他のミュージシャンたちも、どこへ行けば僕が見つかるのか知っていました。彼らはそのことをからかおうとしましたが、僕はその時に目にしていたステージや、見たばかりのステージを記憶するのに夢中で気にもなりませんでした。
 
 

僕がステージの袖に立ってこの目で見てきたことは、人に教えられるようなものではありません。たとえばブルース・スプリングスティーンやU2といったミュージシャンたちは、街の路上から物事を学んだと感じているようです。僕は心からのパフォーマーです。僕は物事をステージから学んだのです。
 
 
 
 

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モータウンのオーディションに受かったと知って、僕らは大喜びしました。ベリー・ゴーディー(モータウン創始者)が、一緒に歴史を作ろうじゃないかと言ったのを思い出します。まるでおとぎ話が現実になったような気がしました。
 
 

「君たちの最初のレコードはナンバー・ワンだよ。そして2枚目も、3枚目も、3曲連続ナンバー・ワンだよ。ダイアナ・ロス&シュープリームスがやったように、君たちもヒットチャートを荒らし回るんだ」彼の言ったことは本当でした。
 
 

1969年11月「アイ・ウォント・ユー・バック」(ジャクソン5)が発売されると、6週間で200万枚を売り上げ1位になりました。この曲はジェリー・バトラーのバンドのピアニスト、フレディ・ペインという人の曲で、グラディス・ ナイトのために書かれた曲でした。
 

あの頃、兄さんたちと一緒にすごせた思い出は、どんなものにもかえがたいと思っています。よく、あの頃の生活をやり直したらと思うくらいです。僕らはまるで “七人の小人” のようでしたが、ひとりひとりは違っていて、それぞれのパーソナリティを持っていました。
 
 
 
 

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僕らが自分たちなりのステージングをやり始めるころ、他のモータウンの大物たちも変化の兆しをみせ始めていました。マーヴィン・ゲイは自分で曲を管理し、名作「ホワッツ・ゴーイン・オン」をプロデュースしました。
 
 

スティーヴィー・ワンダーはキャリアの長いスタジオ・ミュージシャンよりも、エレクトリック・キーボードの知識を積み、みんながアドバイスを求めにやってくるほどになっていました。スティーヴィーが論争の的になった「悪夢」のバックコーラスを僕らにさせてくれたことは、モータウン時代の最後のいい思い出のひとつです。
 
 

モータウンとの確執は、僕があからさまな言い方で、自分たちの曲は自分たちで書き、自分たちでプロデュースしたいと主張した、1974年頃に始まります。基本的に、僕らは当時の自分たちのサウンドが気に入らなかったのです。自分たちのサウンドをやりたいとう強い欲求がありました。
 
 

アーティストにとって、常に自分の人生と仕事をコントロールしておくのは重要なことです。結果を恐れずに、彼なり彼女なりが正しいと信じたことを主張すれば。問題が生じるのを防げるということを僕は学びました。モータウンにとどまれば、僕らはオールディーズのグループになっていたでしょう。
 
 
 
 

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クインシーとの友情は、『ウィズ』の撮影から本当に花開き、父と子のような関係にまで発展していったのです。『ウィズ』の後、僕は彼を呼んで話をしました。「ねぇ、僕、ソロ・アルバムを作る予定なんだけど、誰かプロデューサーとして推薦してもらえませんか?」。
 
 

僕は別にほのめかしたわけではなく、問いかけは純真で、ありのままを質問しただけだったのです。僕らはしばらくの間、音楽について語り合いました。そうして何人かの名前があがったのですが、何となく気のりのしない咳払いがでたり、口ごもったりして、最後に彼が言ったのです。「私じゃどうかな?」。
 
 

クインシーと僕は『オフ・ザ・ウォール』について話し合い、注意深く計画を練りました。僕はどうしてもジャクソンズとは違うサウンドにしたい。ジャクソンズのために、僕らがどれだけ努力をしてきたかを考えると、それは言いづらいセリフでしたが、クィンシーはわかってくれました。
 
 
 
 

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大ヒットとなったシングル「ロック・ウィズ・ユー」こそは、僕が狙っていたものでした。歌うのにも、踊るのにも、僕にピッタリの曲でした。作曲はロッド・テンパートン。当初彼は、もっと、クールでヒップなアレンジを心に描いて作ったのですが、クインシーはそれをソフトに滑らかにしたのです
 
 

ロッドは僕と同じで、彼も実際に外に出てナイト・ライライフを楽しむより、ナイトライフについて歌ったり、書いたりするほうが落ちつくようでした。アーティストの想像力は、人々をまったく別の世界に誘うだけでなく、人々が憧れる雰囲気や感情を作り出すこともできるのです。
 
 

「ゲット・オン・ザ・フロアー」は(ダンス・ミュージックとして)満足できるものでした。というのも、ルイス・ジョンソンが、僕が歌に入っていきやすいように、十分に滑らかなベースの低音を弾いてくれて、コーラスごとにヴォーカルを力強くすることができました。僕は今でも、この曲を聴くと喜びを感じます。
 
 

最もヒットしたのは、「オフ・ザ・ウォール」と「ロック・ウィズ・ユー」でした。アップ・テンポなダンス・ミュージックの多くは強引な印象ですが、僕は、恥ずかしがりやの女の子を連れだして、彼女の殻や心配事を、そっと取り除いてあげるような甘いささやきや、優しい振る舞いのほうが好きなのです。
 
 
 
 

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「シーズ・アウト・オブ・マイ・ライフ」は自分自身のための曲でした。デートとなると、よく知っている相手の時でさえ、相手の目がなかなか見られなくなることがあるのです。デートや女の子との関係が、僕が探し求めているようなハッピー・エンドになったことはありません。
 
 

僕が何百万人かの人と分かち合うものと、一人の相手と分かち合うものは別なのです。多くの女の子は、僕のことを知りたがり、僕を孤独から救いたいらしいのです。僕はそんなこと誰にも望んでいません。なぜなら、僕は、自分が世界で一番孤独な人間のひとりだと信じているのですから。
 
 

この曲には、とても多くの思いが詰まっています。レコーディング中に、歌の最後のほうで僕が泣き出したという話は事実です。だって突然、とても強く歌詞が効いてしまったものですからね。僕はずっと、いろいろな思い出を、自分の内部に積み重なるがままにしてきたのです。
 
 

そのレコーディングで僕が感情的になってしまった時、一緒にいたのはクインシーとブルース・スウェデンだけでした、スタジオに啜り泣きの残響がこだまする中、僕は顔を手で覆い、機械のうなる音を聞いていました。後になって僕は弁解しましたが、そんな必要はないんだよと、彼らは言ってくれました。
 
 
 
 

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『オフ・ザ・ウォール』は、ファンには快く受け入れてもらえただけに、グラミー賞のノミネートには傷つきました。この経験で僕の魂に火がつきました。僕は次のアルバムのこと、今度は何をやるかということしか考えられなくなったのです。本当にものすごいアルバムにしたかったのです。
 
 

僕はまだ幼い頃から、史上最高の売上を記録するアルバムを作りたいと思っていました。そうです。僕は業界のことを知り、自分の目標を頭にたたき込み、何が可能で、何が不可能かを教えられて育ってきたので、並外れたことがしたいと思いました。
 
 

僕らは力に満ち満ちていると、僕は信じています。欲しいと思ったものをすべて手に入れるだけの十分な力を、心は持っています。『スリラー』の成功は、僕の夢の多くを現実のものに変えました、それは、史上最高の売上げを記録憶し、ギネスブックの表紙を飾ったのです。
 
 

僕は、このアルバムを作るのに必死になりました。スタジオに入ると、僕は本当に大変な自信家になります。計画に取り組む時には、それを100パーセント信じています。僕は文字通り魂(ソウル)をそこに注ぎ込むのです。そのためなら死んでもかまいません。それが僕なのです。
 
 
 
 

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ミュージシャンには、その曲がヒットするかどうかがわかります。ヒットするものは、すべてが、しかるべきところに収まっていると感じられるものでなくてはなりません。それは人を満足させ、いい気分にさせてくれます。聴いた時にそれがわかるのです。
 
 

このことを、僕は「ビリー・ジーン」から感じたのでした。この曲を書いている時から、こいつはビック・ヒットになるぞ、と思ったのです。この曲には本当に夢中になりました。
 
 

「ビート・イット」は、学校に通っている子供たちを心に描いて書きました。彼らはとても注文の多い聴き手だからこそ、彼らのために曲を書いて、彼らの反応を知るのは楽しいことなのです。彼らは騙せません。もし彼らが気に入れば、チャートがどうあろうと、それはヒットなのです。
 
 

スリラーは1983年の秋までに200万枚、アルバムは800万枚を売り上げました。翌年、スリラーのフィルムが発売された結果、アルバムとテープの売上が六ケ月の間にさらに1400万枚伸びました。1年後、ようやくスリラーのキャンペーンを終えるまでに、アルバムは3200万枚の売り上げを記録しました。
 
 
 
 

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僕の場合、もうすいぶん長いことこの業界にいるのですから、名声を、もっと違う視点から見るようにしています。ひとりの個人として生き残るためには、できる限り個人的なパブリシティを避け、また、できる限りプロフィールも謎に包ませておくべだということを、僕は学びました。
 
 

パフォーマーというものは、観客の手本になれるくらいに強くあるべきだと思っています。やってみればできることって、たくさんあるんですよ。もし、プレッシャーを感じるなら、そのプレッシャーを逆に手玉にとって利用して、今やっていることの全てを、よりよい方向に変えてみることです。
 
 

僕にとって一番大切なことは、人々を幸せにすることです。彼らに「すばらしかった、また来たいな。楽しかったよ」と言われながら、ショーの会場を後にして欲しい。僕とっては、それがパフォーマンスなのです。ですから、自分の子どもにはこの世界に入って欲しくないと思う有名人の気持ちは、理解できないのです。